決死の覚悟!カミングアウト体験談―FTMとその両親の気持ち
こんにちは~(^^♪
ふと、今までの人生で一番緊張したことは何か?
と考えてみました。
ん~・・・
小学校2年生の時の、初めてのピアノ発表会・・・違うなぁ
お笑いを初めて最初の舞台・・・これも一番じゃないなぁ
そうだ
親に「自分は性同一性障害だ」とカミングアウトしたときだ!!
なんだかクドい前置き失礼しましたww
今回は、僕が親にカミングアウトしたときのことを書いてみようと思います。
この記事を読んで
「懐かしいな、自分がカミングアウトした時はこうだったなぁ・・・」
と思ってくれる当事者の方がいても良し。
「カミングアウトしたいけど、言ったらどうなるだろう・・・」
と思っている当事者の方が参考として心にとめてくれるのも良し。
「へぇ、性同一性障害の人はこんな風にカミングアウトしてるんだぁ」
とLGBT当事者以外の皆さん方の関心に繋がるも良し。
あくまで僕のカミングアウト実体験ですので
みなさん思い思いの感情で読んでいただければと思います。
カミングアウトのカの字も知らなかった うしろまえちゃんの幼少期
現在、うしろまえちゃんは22歳です。
この世に生れ落ちてから2歳の頃までは
当然のことながら、体の性別どおりに女の子として存分にチヤホヤされていました。
これが1歳と2歳の時の僕です。
うしろまえちゃん1歳
うしろまえちゃん2歳
かわいすぎるやろ~( *´艸`)wwww
こんなかわいかったはずなのに今となっては→→→
まぁそんなことよりも・・・
性同一性障害といえど2歳くらいまでは
やはり男女の意識というかはっきりした意思はないようで
僕は、上の写真のように
家族の当然の意思で女の子の恰好をしていたわけです。
そりゃ、体が女の子ですから
この頃、僕のことを性同一性障害であると疑う人は皆無だったはずです。
しかし、3歳の時・・・
写真の様子がいきなり変わります・・・
!!!!!( ゚Д゚)wwwww
なんじゃこの無邪気な少年は!!!!
ぼっくで~~~~~す
3歳の時から、自我やジェンダーアイデンティティが少しずつはっきりしてきたのか・・・
僕は、今までしていた女の子の恰好を全く好まなくなったそうです。
むしろ拒絶するような感じwww
僕は覚えてないですが、家族による後日談です。
この頃から
「どうしておちんちんがないの?いつできるの?」
としきりに母に聞いていたそうですww
「大人になったら生えるから大丈夫よ」
という母の言葉を信じ続けて
現在マイクリちゃん人差し指の第二関節から指先くらいまで成長しました。
www
そんなことはどうでもよろしい!!!w
このような幼少期を経て、徐々に大きくなっていく性別への違和感を抱えながら
自分の「本当の性別」を探し、仲間を見つけ、これからの人生について考え・・・
僕は上京する前の17歳の秋、両親にカミングアウトしたわけです。
カミングアウトに至るまでの道のり
カミングアウトするにあたって僕は何故か
「反対されたり拒絶されたりすることは絶対にないだろう」と
カミングアウトする前からずっと思っていました。
それは、僕が生まれつき自信家である、というのと・・・(笑)
なにより両親に対して相当な信頼があったのでしょう。
かといって、すぐに自然な流れでカミングアウトできたということではありません。
受け入れてくれるだろうとは思っていましたが
そこに至るまでに、僕はいろいろとひそかに準備を積んでいたんです。
まず、高校に入学してしばらくすると
今まで抱えていた性別に対する違和感が一気に大きくなり
「自分は本当に女なのだろうか?だとしたら同性愛者なのだろうか?」
と頻繁に考えるようになりました。
すでにテレビの世界では、はるな愛さんが活躍し始めており
「オネェ・ニューハーフ」の方の存在は知っていましたし
上野樹里さんが性同一性障害の役で主演をされた「ラスト・フレンズ」
このドラマも見ていたはずなんですが・・・
僕は、「性同一性障害」というものを全く知らなかったのです。
知らなかったというか、聞いたことはあっても
「性同一性障害」が一体どういったものなのかを理解していなかったので
実感がわかず、聞き流していたのかもしれません。
とにかく、性別違和を大きく感じるようになってきた僕は
当時、自分が知っていたワード「同性愛」をベースにリサーチを始めました。
そしてたどり着いたのが、当然のごとく「性同一性障害」
性同一性障害を知り、理解したときのアハ体験は今でも忘れられません。
「これだ!!!自分はこれと一緒だ!!!」
そこから僕は「性同一性障害」をネットで調べまくり
SNSで仲間を発見し、コンタクトをとったりしているうちに
「自分だけがおかしいと思っていたけど、こんなにたくさん同じ悩みを抱えた人がいたんだ」
ということもわかり、とても安心感がわきました。
そして僕は、「治療」について考え始めます。
自分の体に対する違和感を「おかしい」と押さえつけていた留め具がはずれ
違和感のない体になりたいと強く思うようになりました。
治療を始めるため、そして何より、カミングアウトに向けて
性同一性障害であるという証明がほしくて、病院を探しました。
性同一性障害を診てくれるお医者さんは熊本(僕の地元です)にもいるのか・・・?
とネットで探し回り
結果、熊本大学病院の精神科に行ってみることにしました。
行こうとは思ったものの・・・
この時、カミングアウトしていない段階で
僕の家から熊大病院までは、車で30~40分。
診療時間の関係もあり、平日にしか行けない。
「そうだ、学校をサボろう」
いつものように制服に着替え、母に駅まで車で送ってもらい
「いってきま~す!!」と電車に乗る・・・
フリをして!ww
駅のトイレで私服に着替えた僕は
担任の先生に「体調悪くて病院に行くので遅れます」とちゃんと電話も入れ!
学校とは反対方向の電車に乗り!
いざ熊本大学病院へ!!ぶ~ん
・・・
そして初めての診察
僕「自分は、性同一性障害だと思うんですが・・・」
先生「なるほど。今まで違和感を感じて過ごしてきたんだね。でも、申し訳ないが熊大では性同一性障害を専門に取り扱ってないんです。あなたのためにも、きちんと専門的に診てくれるところに行った方が良い。」
僕「そうですか、どこの病院に行けばいいんですか?」
僕「(県外!!!でも行くとしたら、福岡の方が近いか・・・)」
先生「とりあえず、熊大からの紹介状を出しておきますね。」
その後、紹介状を受け取り、何事もなかったかのように学校へ。
翌日、僕はまず福岡大学病院に電話してみました。
僕「あの、性同一性障害の診察を受けたいのですが」
福大「はい、性同一性障害の方の診察は、予約が半年先まで埋まってしまっています。それでもよろしいですか?」
僕「っ!!(;゚Д゚)・・・・出直します・・・」
九州で一番栄えている福岡・・・ナメていたぜ・・・・
半年先までいっぱいと言われた時にはマジで驚きましたね(笑)
そのあと長崎大学病院に電話すると・・・
難なく、翌月に診察の予約を入れることができました。(^^♪
ってちょっと待てよ・・・
長崎って・・・毎年夏に家族で行くけど
家から車でも、4時間以上かかるぞ・・・
しかも途中でフェリー乗ってたし・・・
予約したのは平日の午前中・・・
一人で行けなくね!?(;゚Д゚)
はい、これがきっかけで両親にカミングアウトすることにしたのです(笑)
というか、本当は診断が出てからカミングアウトするはずだったんだけど
もうカミングアウトせざるを得ない状況になってしまったわけですねwww
「かぁちゃん・・・うしろまえちゃんを長大に連れてって・・・」
と浅倉 南ちゃん風にお願いするべく、僕は腹をくくったのでした。
※写真は謎の柔道着ですがwww
いざ、カミングアウト!!!
カミングアウトの方法はみなさんそれぞれだと思います。
ただ、聞いてみると手紙やメールでする方が多いんです。
これは、カミングアウトする側に立ってみたら理由がよくわかりますww
文字で伝えたい
手紙として残しておいてほしい
こんな考えほぼほぼありません!
ただ純粋に、面と向かって言えないからです(笑)
僕は受け入れてもらえる自信があった、と上の方に書いていますが
いざカミングアウトするとなると本当に異常なくらい緊張しました。
だって、受け入れてくれたとしても
母が涙する顔が想像できたんですものww
だから僕も、直接は絶対に無理だと思い
「メールで気持ちを伝えよう」と決意しました。
学校の通学時、自分の部屋にいる時など、一人でいる時間に
カミングアウトの文章を考え
打ち込んでは消し、打ち込んでは消し・・・
3日間くらい考えて推敲しまくった文章をついに完成させました。
内容は
・自分は「性同一性障害」であること。
・2人には秘密で学校をサボって病院に行ったこと。
・そこで紹介された長崎大学病院に行きたいということ。
・今後の治療について、どんな治療がありどれくらいお金がかかるかということ。
・ただし、それに関しては全て自分でお金を稼いで自分でやろうと思っている決意
・芸人の夢を追いかける上で、はるな愛さんのようになりたいということ。
・自分がこうであることに対する謝罪と両親への感謝の言葉
ザッとこんな感じでしょうか。
文字数がメールの容量の限界近かったと思います。
あとは、送信ボタンを押すだけ・・・
そのあと一歩がなかなか踏み出せません。
家にいるときには絶対にそのボタンを押せないと思っていた僕は
バイトのときに送っちゃえ!と
バイト中こっそり裏に行き、決死の覚悟で「送信ボタン」を押したのでした。
そのあと、そわそわして集中できなかったバイトといったら(笑)
まぁ、放っておいてもバイトの終了時間は訪れます。
「お疲れ様でした」とバイト先を後にして、帰宅。
僕は自分の家の前へ。
すぐには、家に入れませんでした(笑)
家の裏に回り、空き地に座り込んで10分間くらい固まりました(笑)
しかしずっとこうも緊張ばかりしていられないですから
僕は何事もなかったように
「ただいま~」
と家に帰ったんです。
メールの送信先は、母と父のみ。
何も知らない祖母は、いつもと変わらない様子です。
すると父が
「飯食えよ」
といつもどおり晩ご飯をだしてくれ
母も
「おかえり~」
と言いながら洗濯物を畳んでいました。
「メール読んでないのかな?」
と一瞬思いましたが、・・・いや違う、と。
これは、僕・父・母がお互いに究極に気を使っている状態なのだと
家に漂う 妙な空気から感じ取ることができましたw
ご飯を食べた後は、自分の部屋に行き
手につくはずもないのに、宿題を広げて、ノートに向かっていました。
形だけ宿題をしながら頭の中は、カミングアウトしたことでいっぱいでした。
すると、僕の部屋に母がやってきたのです。
母「・・・メール読んだよ」
僕「うん・・・そういうことだけん」
母「お母さんね、あんたがちっちゃい時から、そうじゃなかろか~っては思いよったもん。でも、実際言われるとやっぱり、ちょっとショックね」
僕「・・・」
母「ショックって言っても、あんたがそうだけんショックじゃなかとよ。アンタもキツかったとだろうなぁて。ちゃんと産んでやれんで申し訳なかったなぁて。」
そして母は、こらえていたのでしょうが
「気づいてやれんでごめんね」
と涙を流しながら僕に言ったのです。
「謝らんでよ、母さんは悪くないし誰も悪くない。でも自分の中では、もう治療とか先のことを考えとるし、これから先母さんに負担をかけることは絶対にせんけん」
と、僕も泣きながら伝えました。すると
「うん、アンタの人生だけん、アンタの好きなようにしなっせ。男でも女でもお母さんの子どもには変わりないけんね。」
うちのババァ泣かせてくれるぜ・・・(/ω\)
僕はもう何も言えませんでした。
「大変と思うばってん、がんばりなっせよ。長崎大学病院にはいつ行くとね?お母さん仕事ば休みにせなんけん」
とすぐさま、長崎大学病院での診察の話を出してきた母に
僕は心からの感謝と尊敬と愛を感じたのでした。
ちなみに父は・・・(笑)
ある日、学校帰りに駅に迎えに来てくれた時の車内で、その話になり
「お前は芸人目指して来年から東京にも行くとだけんが、そがんことはまだ大人になってから考えなっせ。これからどう変わっていくかわからんとだけん」
※訳:お前は芸人目指して東京にも行くし、そういうことはまだ大人になってから考えたらどうだ。今後気持ちが変わっていくかもしれないし。
と受け入れられないご様子でした。
当時は、母さんは受け入れてくれたのに父さんは理解してくれない・・・
と、父に対してよく思えませんでした。
それ以来、父とは少し関係がぎくしゃくし
以前のようにたくさん会話することもなくなってしまいました。
そして、そのまま僕は芸人を目指して上京。
病院も東京のはりまメンタルクリニックへ移し、新生活を始めたわけです。
上京して半年が経った頃、夜中に突然父からの電話。
僕の体を気遣ったような会話から始まったその電話の中で父は
昔自分も音楽の夢を追って上京したこと。
同ジャンルの仕事には就いている今も、当時の夢を叶えることはできなかったこと。
だから、お前も大変だろうががんばれ・・・
というような内容の話を聞かせてくれました。
そして、電話の向こうで父は
「はるな愛も、たいが苦労ばしてきとっとばい、アンタもそこば目指すなら、たいががんばんなっせ。東京で父さんの分まで頑張って、絶対売れなんばい」
※訳:はるな愛も、とても苦労してきたんだよ、お前もそこを目指すなら、めちゃくちゃ頑張れ。東京で父さんの分まで頑張って、絶対に売れろよ。
と号泣しながら言ったのです。
父の涙を見たことがなかった僕は、驚きながらも
心からの応援の言葉についつい泣いてしまいました。
あの時のカミングアウトを「理解している」とストレートに言えないところも
ひそかに誰よりも応援してくれているということも
父らしいな、と改めて感じました。
それから数か月後の2011年11月、初めてのホルモン注射投与。
当時未成年だった僕は投与の際
両親の同意が必要でだったので実家に同意書を送ったのですが
返ってきた書類には、見慣れた筆跡で
母、そして父の二人の名前が書いてありました。
カミングアウトをして、両親との関係が今まで以上に深いものになり
熊本―東京でなかなか会うこともできませんが
いつも感謝の気持ちを忘れずに生活しています。
ちなみに、現在東京で弟と同居中のうしろまえちゃんですが
弟いわく
「実家のパソコンで性同一性障害ってめっちゃ検索してたから、カミングアウトされる前から知ってた」
と一番先に僕のことを見破ってました(/ω\)テヘ
僕の人生はみんなの人生。
応援や支えがあるから歩いて行ける。
僕の人生の行きつく先には
たくさんの人への「恩返し」が待っているのだと強く思いながら
また生きていこうと思います。
カミングアウトにはそれぞれたくさんの思いがあり
たくさんの気持ちが動きます。
カミングアウトするもしないも、したあとどうなるかも
すべて人それぞれです。
今回は、僕のカミングアウト体験談を通して
皆さんが後ろ向きであろうが前向きであろうが
何かしら感じるものを持っていただけたらいいなぁと思います。
僕の記事が少しでも誰かの勇気になれば幸いです。
あ、先月母が弟の誕生日に東京へ遊びに来ました。
いつまでも元気でいてほしいです( *´艸`)
僕がきちんと「恩返し」を終えるまで。
毎月最終火曜日22:00~は
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